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ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第38回:椙田雅美先生(中国語翻訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー
プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、中国語翻訳者養成コース講師、椙田雅美先生ご紹介の「日本奥地紀行」(イザベラ・バード著, 平凡社)です。

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旅行が好きで近年は国内外合わせて年間50日以上は旅に出ています。
そんな私に「旅人にならなくてもいい。自分が旅をするだけでいい」と、教えてくれた本です。


「日本奥地紀行」は、明治初期に日本の東京から北海道までを旅したイギリス人女性、イザベラ・バードが、欧米人にとって未開の地であった日本の奥地について、自作の精密な挿絵も交えて詳細に記録した旅行記です。最近になって全四巻の完訳本をはじめ、関連書籍が多数出版されましたが、大学院生だった私がこの本に出会った時には、東洋文庫の抄訳版があるのみで、大学の図書館の地下書庫にひっそりと置かれていました。この地味な装丁の本になぜ気づいたのか不思議ですが「奥地」という言葉に惹かれたのかもしれません。

 

イザベラ・バードは、明治11年(1878年)5月に横浜港から日本に入国します。栄華の絶頂を極めていた大英帝国からやってきた彼女にとって、ほんの20年前まで鎖国をしていた極東の国は、どれほど好奇心をそそり、驚愕に満ちていたでしょうか。


ところが、私の予想とは異なり、上陸して最初の記録は、旅人の好奇心や高揚感を前面に押し出したものではありませんでした。灰色の霞に覆われ、イギリスに比べれば簡素で味気ない町並みを前にして感じた寂寥が率直に綴られるとともに、驚くほど冷静で詳細な観察によって、港から眺めた富士山、横浜の街並み、そして市井の人々の様子が精細な筆致で記されています。


日本で発明されて間もない人力車をさっそく利用したバードは「クルマすなわち人力車は、乳母車式の軽い車体に調節できる油紙の幌をつけ、びろうどや木綿で裏張りをした座布団が敷いてあり、座席の下には小荷物を入れる空所があり、高くてほっそりした車輪が二つある」と、車両について詳しく説明し、貧相な体格に似合わない西洋風の服装をした乗客たちについて「まことに滑稽な光景」、「彼らはそれに似合わぬ自分たちのおかしな姿に、少しも気がついていない」と批評します。そして「車は疾駆し、追いかけ、互いに交叉する。車夫は、どんぶり鉢を逆さにしたような大きな帽子をかぶり、青い妙な股引きをはき、短い紺の半纏には、しるしや文字を白く染め抜いてある。この愉快な車夫たちは、身体はやせているが、物腰は柔かである。彼らは、町の中を突進し、その黄色い顔には汗が流れ、笑い、怒鳴り、間一髪で衝突を避ける」と、車夫達たちの様子を実に生き生きと描写しています。


バードはこの年すでに47歳の中年女性でしたが、従者兼通訳として雇った18歳の伊藤鶴吉ひとりだけを連れて、東京−日光−会津−新潟−山形−秋田−青森と進み、さらには北海道に渡って函館から平取まで3ヶ月もの間日本を周ります。「私は、ほんとうの日本の姿を見るために出かけたい」というたったひとつの理由だけで。


どの村でも外国人をひと目見ようと集まってくる野次馬に囲まれ、不衛生な環境に辟易し、調教されていない駄馬と格闘しながらも、バードは少しもひるむことなく旅を続けます。上陸早々に、人力車と車夫を観察した熱意は、旅の終わりまでまったく変わりません。


北海道ではアイヌ人の集落に泊まり、食事を供にします。アイヌの人々の生活ぶりが、まるで映像のように克明に伝わってきます。開拓時代初期、日本人官吏によって、先住民族を新政府の支配下に置く目的での調査は行われていましたが、アイヌ文化の学術的研究は始まっておらず、バードの記録が当時のアイヌの生活を知る唯一の文献となっています。

 

旅行記そのものの素晴らしさに加え、私が驚いたのはバードが自分の生活スタイルを崩さず、平常心を保ち続けていることでした。着慣れたドレスで山道を歩き、持参した簡易ベッドを畳の上で組み立てて眠り、風呂がない地域では簡易浴槽まで作って身体を洗おうとします。これは一見「郷に入っては郷に従え」というありかたに反するようですが、決して現地の生活に溶け込もうとしないのではなく、彼女は何でも食べてみる、やってみる、日本人の通訳が嫌がることも臆することはありません。何でも経験してみるが、いたずらに物真似はしないということでしょうか。


また、各地方によって異なる生活習慣やしきたり、ものの考え方について、それがどのような理由によるものなのか熟考し、納得すれば心から賞賛します。一方で自分の価値観と相容れないことがあれば、遠慮なく疑問を呈し、辛辣な批判をすることもあります。

 

このように自分を見失うことなく、外国人であるゆえに生じる距離を認識し、あくまで対等な立場で相手を知ろうとするバードだからこそ「ほんとうの日本の姿」を見ることが出来たのでしょう。


私は、大学生の頃からバイトに明け暮れては旅行や短期留学に出かけていましたので、この本に出会ったときすでにそこそこの場数を踏んでいました。しかし、長距離を歩くのが嫌い、水回りの汚い安宿やドミトリーに泊まるのは苦手、他のパックパッカーに比べてやたらに荷物が多いなど、自分は中途半端な旅しか出来ていない、憧れのスナフキンのような「旅人」にはなれそうもないと忸怩たる思いを抱いていました。


一方で、したり顔のバックパッカーたちにも疑問を抱いていました。当時、某有名ガイドブックの「中国」版には「人民服を来て、硬座車(中国の何もかもがハードな三等座席車)に乗ればほんとうの中国が見えてくる」と書かれており、この本を信奉する日本人バックパッカーが中国各地を闊歩していましたが、真新しい人民服に身を包み、有名山岳ブランドのザックを背負い、皆が皆、例の青いガイドブックを手にしているのですから一目で日本人とわかります。彼らが硬座車に乗れば、たちまち回りの乗客に囲まれ、カメラや腕時計、航空券の代金、果ては自宅のテレビのサイズまで質問攻めに遭っていました。人民服を着ていない私も当然注目の的になりましたが、そもそも中国人の若者が遊びのために旅行出来る時代ではなかったので、旅行者イコール外国人だったのです。わざわざ買った人民服を着ることは、むしろ失礼なのではないかと思っていました。私は、硬臥車(二等寝台車)や軟臥車(一等寝台車)にも乗りましたが、質問攻めにあうのは三等車と同じです。ただし質問される内容はかなり違っていて、社会主義国家中国にある階層というものを知りました。一等車に乗る党幹部も、三等車に乗る労働者も同じ中国人です。いい人がいれば悪い人もいるのも日本と同じです。異国にいても、自分は自分らしく過ごせばよいのであって、旅に溺れてしまっては一面しか見えてこないのではないでしょうか。


イザベラ・バードは、旅人になりきれないことに迷いを感じていた私に「旅人にならなくてもいい。自分が旅をするだけでいい」と気づかせてくれました。以来、自分が見たいものを、普段通りの自分の目で見ることを第一に考え、情報に惑わされぬことを心がけるようになりました。


翻訳の仕事をしていく上でも、このことは忘れないようにしています。

 

語学を仕事にするには、相手の国の歴史や文化を知ることが必要ですが、言葉が分かるようになると、それだけで歴史や文化も分かった気になることがあります。心情的にも、往々にして母国語ではなく、努力して覚えた外国語の側に流されてしまいがちです。しかし、翻訳という仕事で大切なのは、二つの言語を中立の立場から捉え、同じ概念の文章に換えていくことですから、両者の間をさまよう旅人になってしまってはいけないと思っています。

 

 

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椙田 雅美(すぎた まさみ)
東京都出身、中央大学大学院総合政策研究科博士前期課程修了。専攻は人口政策。ISSインスティテュートで学び、現在は中日翻訳者としての活動をメインに、ISSインスティテュート及び日中学院で講師を務める。ISSインスティテュートでは中国語翻訳者養成コース「本科2(中日翻訳)」クラス担当。訳書に「中国農民調査」(文藝春秋)、「発禁『中国農民調査』抹殺裁判」(朝日新聞出版)など。

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