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ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第46回:和田泰治先生(英語通訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー

プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語通訳者養成コース講師、和田泰治先生ご紹介の日英語表現辞典」(最所フミ編著, ちくま学芸文庫, 2004年)です

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本書は最所フミ氏が執筆された「日本語にならない英語」と「英語にならない日本語」を合冊して改定出版されたものである。
書籍のタイトルは「辞典」となっているが決して辞書ではない。見出し語がアルファベット順になっているので確かに体裁は辞典のようになっているし、必要に応じて特定の言葉を調べることもできるが、この本はまずは最初から最後までしっかり通して読破すべきだと思う。拾い読みではあまりにももったいないのである。筆者が前書きで述べている通り、英語と日本語の持つ固有の思考法と論理が様々な角度の分析と豊富な例文で解説されている。英語、日本語のネイティブスピーカーの思考法、風俗、習慣、歴史的背景など多岐にわたる思索は辞典というよりもエッセーに近いものだ。私は、通訳者にとって最も重要な語学的能力は、恐らくそれぞれの言語の「語感」を自在に感じ取ることだと思う。表層的な言葉は真実の影であり、その言葉からスピーカーの思考へと分け入り、思考、論理という抽象化されたイメージから、同じ「語感」を持つ別の言語で説明をし直すことが通訳というプロセスだと考えている。だが、その「語感」を養うことは筆舌に尽くし難い修養を要する。日本語、英語の両言語に関するすべてを知識、感覚として会得しなければならない。本書は、先人の助けを借りて、少しでもその理想に近づこうとする者にとっての一条の光となるものだ。

 

全体は英和の部と和英の部に分かれている。それぞれの言語毎に多くの言葉の持つ意味、思考、背景が解説され、訳と例文で構成されている。英和の部を一読すると、もちろんこれまで全く知らなかった言葉も数多くあるのだが、それ以上に、これまで自分では十分に意味が分かっていたはずだと考えていた言葉、少なくともある程度は正しくその意味を理解して使っていたと思っていた言葉が見出し語として多数並んでいる。そして、そのほとんどに関して何らかの新たな知見を学ぶことができる。あまりにも自分が勉強不足で言葉を知らなかったと落胆することも確かではあるが、あらたな思索のヒントを得た喜びのほうが大きいだろう。和英の部も構成は同じだが、こちらは母国語の日本語を英語で説明するための解説である。英和の部と同様、今度は元の日本語に関する日本人の思考法や論理的な発想、歴史的、社会的背景から、それを適切に説明する英単語や英文が示されている。順番に読んでゆくのだが、まず見出し語を見て、自分自身で英語の表現を頭に思い浮かべてから解説を読むと、筆者の発想との比較ができて非常に勉強になる。
英和の部、和英の部を合わせれば相当な数の言葉に触れることになるから、一読しただけでその全てを吸収することは出来ないが、大切なのは、英語、日本語それぞれの違いを認識しつつ、どのような思考法によって別の言語で説明するべきかいうことを偉大なる先人の発想に学び、感覚を磨くことである。編者の最所フミ氏は1990年に逝去された。それから既に30年が経ち、英語も日本語も新しい言葉や用法が生まれている。本書が出版された当時は新しい言葉として、未だそれほど普及していなかったものの現在ではごく普通に使われている言葉、あるいは当時とは語感が変わった言葉もあろう。職業として言葉に携わっている者の端くれとして、今後は我々が言語の背景にある様々な思考や論理、文化そして記憶や情感すら咀嚼し、研ぎ澄まされた感性を持って言葉に対峙してゆく義務がある。そう襟を正す覚悟を問う名著でもある。

 

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和田 泰治(わだ やすじ)
明治大学文学部卒業後、旅行会社、マーケティングリサーチ会社、広告会社での勤務を経て1995年よりプロ通訳者として稼働開始。スポーツメーカー、通信システムインテグレーター、保険会社などで社内通訳者として勤務後、現在はフリーランスの通訳者として活躍中。
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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:40 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第45回:岩木貴子先生(英語翻訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー

プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語翻訳者養成コース講師、岩木貴子先生ご紹介の「翻訳できない世界のことば」(エラ・フランシス・サンダース著, 前田まゆみ訳, 創元社, 2016年)です

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多様性を教えてくれる素敵な絵本『翻訳できない世界のことば』

 

『翻訳できない世界のことば』(エラ・フランシス・サンダース著、前田まゆみ訳、創元社、2016年)という絵本はもう読まれましたか? イラストレーターの著者による素敵な絵本を、絵本作家で翻訳家の方が訳されたので、一冊の本としても、絵本としても、翻訳書としても素晴らしい仕上がりになっています。

 

個人的なお気に入りは、pisanzapra(ピサンザプラ。「バナナを食べるときの所要時間」という意味のマレー語の名詞)やporonkusema(ポロンクセマ。「トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離」という意味のフィンランド語の名詞)。ポロンクセマは約7.5キロとか。人々の生活を感じさせてくれる言葉です。ピサンザプラは「人によって、またバナナによっても」違うのですが、「一般にはだいたい2分くらい」だそうです。一方、壮大なスケールなのはkalpa(カルパ。「宇宙的なスケールで、時が過ぎていくこと」という意味のサンスクリット語の名詞)。インドでは悠久の時間が流れているのですね。生活に根づいた文化を感じさせるこういった言葉を眺めていると、“多様性”という言葉が浮かんできます。

 

ほかにも、resfeber(レースフェーベル。「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること」という意味のスウェーデン語の名詞)やiktsuarpok(イクトゥアルポク。「だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること」という意味のイヌイット語の名詞)など、魅力的な他国の言葉が紹介されています。「そんな概念・感情・行動がこの言語では言葉になっているんだ」と驚くと同時に、ちょっと切ないような、胸がキュンとするような。まったく異なる文化の、言葉も知らない国の人々でも、社会の決まり事や言語、文化、政治といった表層的な部分をとっぱらうと、人間としてのとても無防備な感情が垣間見えて、それがとても愛おしく感じられる、とでもいうような(この感情も、もしかしたらどこかの国では一語で言い表されているのかもしれません)。

 

タイトルについて、「『翻訳できない』は、厳密にいうと『りんご=apple』のように1語対1語で英語に翻訳できない、という意味」だと訳者あとがきで説明されています。“一語で言い表せない”だけであって、“理解の範疇を超えている”のではありません。たとえば、mamihlapinatapai(マミラピンアタパイ。「同じことを望んだり考えたりしている2人の間で、何も言わずにお互い了解していること。(2人とも、言葉にしたいと思っていない)」という意味のヤガン語の名詞)。ヤガン語はチリの原住民の言語だそうです。以心伝心と似ているので、日本語話者にとっては親しみやすい概念ではないでしょうか。こういう言葉は人としての心をのぞかせてくれます。それは決して異質なものでも珍妙なものでもなく、私たち自身の姿がそこにはあります。

 

本書から伝わってくるのは、多様性は“異質性” と同時に“普遍性”も内包している、ということです。「そんな風に世界をとらえているんだ」という文化の異質性の面白さと、「でも分かる」という共感を呼び起こし、人間存在の普遍性を感じさせてくれる本書には、翻訳の醍醐味がつまっていると思います。

 

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岩木 貴子(いわき たかこ)
フリーランス翻訳者として出版、実務分野で活躍中(英→日、日→英)。アイ・エス・エス・インスティテュートでは、英語翻訳者養成コース、総合翻訳科、ビジネス英訳科の本科レベルを担当。
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評価:
エラ・フランシス・サンダース
創元社
¥ 1,728
(2016-04-11)

| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:00 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第44回:近藤はる香先生(中国語通訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー

プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、中国語通訳者養成コース講師、近藤春はる香先生ご紹介の「形而上学(パース著作集)」(C.S. パース著, 遠藤 弘 編, 勁草書房, 1986年)です

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読経は何を言っているかわからないから有難い。どのように読もうとも、経自体の意味や原理は変わらないのだが、「南無阿弥陀仏…」とはっきり文字が浮かぶような読経は講義のようで味気なく、そうでない読経は仏の世界に引き込まれる気がする。

 

哲学書は敷居が高い。普段はあまり読まない。名言としてよく知られている一言二言の言葉は触れる機会も多く、わかっているつもりだが、1冊の哲学書を系統的に理解することは難しい。

 

しかし哲学書も読むこと自体は難しくはない。哲学書にみられる抽象的な表現や言葉は「抽象的であればあるほど、経験の一般的規則としても、また論理的原理からの必然的結果としても、構築し易いもの」(「形而上学」p.1)であり、「なるほど、そういうことか!」と悩み続けた問題を一気に解決してくれるようなヒントがそこかしこに盛り込まれ、嬉々として一冊を読み終えることも少なくない。

 

例えば、同書第一章に「全く新しい習慣は意志を伴わない経験によっては創造されえない」、「筋肉を働かせているようにみえるときも習慣を生み出すのはその筋肉の働きではなく、それに伴う内的な努力、すなわち想像力の働きである」(p.23)とある。これは通訳の練習にも通じる。シャドーウィングをただただ100回繰り返してもスキルはなかなか上がらないが、「話しながら、こまかいところまで聞きとるぞ」、「聞きながら、発音・アクセントを崩さず話すぞ」などと目標や注意点を明確にし、意識しながら取り組むと数回の練習でも確実に効果があがる。スポーツの世界で「イメトレが大事」とよく言われるが、全くその通りである。

 

ただ、一冊読み終えた時、はたしてその内容をきちんと「理解」していたかというと、答えは「否」である。一節もしくは文単位では“解釈”でき、感動さえ覚えるにもかかわらず、1冊どころか、たった1頁でさえ、まとまった意味や流れを理解することができない。「おお!」と感動し、理解できたと“感じる”文や言葉は沢山あるのに、それはいつまでも「点」のままで、「面」はおろか「線」にもならない。となると、「点」も本当に理解できているのか怪しくなる。

 

言葉を理解する際、人間は「言葉」以外の助けを借りている。語気や口調は典型的だが、他にも、言葉のもつ音やイメージが生み出す「感覚」が、語義を越えて話者の意志を伝えることもある。芸術家や設計士の話す言葉は「感覚」的で、通訳の現場で頭を抱えるのも決まってそうした「感覚ではわかるけど、ロジックがつかめない」話だ。

 

誤解してはならないのは、「“感覚”で伝わる=“ロジック”がない」とはならないことだ。音楽や絵画など芸術作品が実は緻密な論理的構成に支えられているように、抽象的な、感覚的な話にもそれを支える「論理」が必ずある。論理的でない話を相手がしているのではなく、「感覚」と「論理」をつなげ、正しく理解する力が自分に欠けているだけである。

 

分類はあらゆる科学研究の基本だ。そして、「形式に基づくもろもろの区別や分類の方が(中略)諸物の振る舞いを科学的に理解するためには重要」(p.12)である。だから私は『形而上学』を分析しながら読むことにした。「感動」を振り払い、「解釈」をせず、ひたすら一文一文の意味と繋がりを掴んでいく。

 

感覚的な「感動」、自分なりの解釈を否定するわけではない。それこそ読書の醍醐味だと思う。ただ私は、文字の浮かばない読経を聞きながら、論理をつかめるような境地に至りたい。そして、論理に支えられた「感動」を、論理を感じさせることなく相手に伝えたい。それが私の目指す通訳像である。

 

 

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近藤 はる香(こんどう はるか)
横浜市立大学国際文化学部卒業。10年の中国留学を経て、帰国後フリーランス通訳者、翻訳者として活動中。アイ・エス・エス・インスティテュートでは中国語通訳者養成コース基礎科1を担当。

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:34 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第43回:石原香里先生(英語通訳)

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プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語通訳者養成コース講師、石原香里先生ご紹介の「Prognosis: A Memoir of My Brain」(Sarah Vallance著, 2019年)です

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中学時代を過ごしたシドニーの現地校で、私に最初に話しかけてくれた女の子が2人いたのですが、その1人がこの本の著者、セーラ・ヴァレンス(あえて原語に近い表記にします)でした。州立音楽院付属のハイスクールでヴァイオリン専攻だったにもかかわらず「ジャーナリストになりたい」と言っていたセーラ。ピアノ専攻だった私は伴奏やレッスンを通じて彼女と仲良くなり、この本に登場する彼女の両親とも面識がありました。社会人になってからのことは州政府のキャリア官僚になり一時香港に住んでいた、というくらいしか知らなかったのですが、フェイスブックで「今度本を出す」というではありませんか!しかも、再起不能といわれた脳損傷からの回復の記録と聞いて2度びっくりしてしまいました。一体何があったというのでしょう!?

 

読んでみると、内容もまた衝撃的なものでした。脳損傷の原因になったのは20代の時の落馬事故で頭を強く打ったこと。事故後、冷蔵庫からランプが、冷凍庫からトースターが出てきても、本人は全く身に覚えがありません。博士論文の執筆中だったのに、読み書きも不自由になり、自分の書いたものが理解できず、仕事も解雇されてしまいます。「ホワイトカラーの仕事は無理」との宣告を受け、リハビリ施設で単純作業をしたりするのですが、そこから彼女は自らに鞭打って後遺症と戦いながら、毎日、記事の書き取りをしたり、音読を繰り返したりして言葉を再習得していくのです。その原動力になったのは厳格だった亡き父親の存在であり、最も辛い時期に彼女に寄り添ってくれたのは元保護犬たちでした。(犬たちとの「会話」が絶妙!)脳の奇跡的な回復と社会復帰がストーリーのタテ糸だとするならば、ヨコ糸となっているのが親子の愛憎、介護や尊厳死、恋愛(彼女はゲイです)、老いに対する不安などの普遍的あるいは今日的なテーマなので、一定以上の年齢の(?)読者なら大いに共感できると思います。

 

たとえ側にいても、人はなかなか心の奥底にあることを打ち明けたりはしないもの。シャイな彼女の赤裸々な告白を意外に思うと同時に、セーラにとって書くことが何よりの癒しになったのだろうと感じました。

 

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石原 香里(いしはら かおり)
桐朋学園大学音楽学部ピアノ科卒業。ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院、ロンドンRoyal College of Music Postgraduate Courseに留学、修士課程修了。帰国後、音楽活動の傍ら通訳スクールで学び、米同時多発テロを契機に、NHKの報道・音楽番組の映像翻訳、インタビュー通訳に携わるようになる。現在はCNNj をはじめ民放各局でも首脳会談、記者会見等の同時通訳者として稼働中。

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 11:28 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第42回:村瀬禄\萓検扮儻賈殘)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー

プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語翻訳者養成コース講師、村瀬隆宗先生ご紹介「日本人の美意識」(ドナルド キーン(著), 金関 寿夫(翻訳), 中央公論新社, 1999年)です

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皆様はじめまして。このたび翻訳講座を担当させていただくことになりました、村瀬隆宗と申します。人生で一番影響を受けた本と言われれば『天才バカボン』ですが、講師としてどうかということで、今回は2019年に最も感銘を受けた本を紹介したいと思います。

 

翻訳業を続ける傍ら、通訳案内士資格を昨年取得し、通訳ガイドとしても今春デビューしました。それに先立ち「外国人の日本観・日本人観を押さえておこう」ということで、YouTubeで訪日観光客のインタビュー動画を観たほか、『菊と刀』に代表される古典にも触れました。その一冊が『日本人の美意識』です。

 

著者はアメリカ出身の日本研究家で、残念ながら今年亡くなったドナルド・キーンさん。金関寿夫さんの訳は、いい意味で翻訳調です。日本人特有の美的感覚を4項目に分け、それぞれ具体例を挙げながら論説しています。その一つが「余情・余韻」。例えば「ほのぼのと 明石のうらの 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ」のような、以前は特に響かなかった平安時代の和歌が、キーンさんという外国製の高級アンプを通してビンビンに響いてきました。

 

日本人であるはずなのに海外の人に教えられるというのは、悔しい気もします。一方で、言われてみれば自分にも余情や余韻を好む部分が確かにあると気付きました。アニメのような映像が思い浮かんでしまう最近の小説。歌詞の解釈を限定してしまうミュージックビデオ。そういったものを受け付けない私は、これも日本人らしい美意識なのかと嬉しくなりました。

 

「完璧性を嫌うこと」も日本人の美意識とされていて、私はこれを富士箱根ツアーのガイドで富士山がよく見えなかった時の言い訳に使っています。「今日は雲が多くて皆さんはラッキーだ。雲が全くかかっていない富士山なんてツマランものは、日本の美的感覚に合わない。世界遺産の日光東照宮だって、完璧を避けるために柱を1本わざと逆さまにしたぐらいだ」

 

1969年の作品なのに色あせない、と言いたいところですが、我々日本人の変容によって若干色あせつつあるように感じます。自分自身のことだけに、異国の優れた観察者という鏡を通さないと見えにくい。そういった美的感覚を「日本人あるある」として残していくためにも、ぜひ読んでほしい一冊です。収録されている他の日本論も読み応えがありました。

 

ところで、翻訳学習者の皆さんは読書されるのはいいとして、自分で何かお書きになっているでしょうか?私は「機械翻訳に淘汰されない翻訳者になるためには、自ら文章を書くことに慣れなければならない」と考えています。書くことが思い浮かばないなら、好きな本の好きな部分を“写経”するところから始めても構いません。ちょうど今、仕事場にしている越後湯沢のリゾートマンションに近いカフェにて、お気に入りの万年筆でノートに英文をすらすら書き、コーヒーを運んで来た方に「めちゃくちゃカッコイイ!」と恐らくは思われているところですが、実は最近入手した『日本人の美意識』の原文を写しているだけなんです。

 

講座では、そういった「機械・AI翻訳時代にも活躍できる翻訳者」になるための道も示していくつもりです。翻訳道を究めたい“同志”とお会いできるのを楽しみにしています。

 

 

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村瀬 禄 覆爐蕕 たかむね)
慶應義塾大学商学部卒業。スポーツ、金融・経済、工業系を中心に産業翻訳から映像翻訳、出版翻訳までこなし、20年近く4人+1匹家族を養う。通訳ガイドとしても稼働中。現在、翻訳者養成短期集中コースを担当。

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〜村瀬隆宗先生がご担当のクラスをご紹介〜

 

四葉のクローバー​​【12月開講】短期集中コース

「基本からしっかり学ぶ はじめての実務翻訳訓練」

[東京校] 12/10・17・1/7・14・21・28(火)19:00-21:00(全6回)※12/24・31は休講
[インターネット] 12/11-2/7 ※スマートフォン、タブレット端末対応

 

※インターネットクラスの授業動画は通学クラスの方もご視聴いただけます。復習や欠席された際の補講用としてご利用ください。
 

 

 

評価:
ドナルド キーン
中央公論新社
¥ 796
(1999-04-01)

| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:30 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第41回:蘇馨先生(中国語通訳)

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プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、中国語通訳者養成コース講師、蘇馨先生ご紹介「只有医生知道」(张羽 著, 江苏人民出版社, 2013年)です

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「微信读书」を使っていますか。持ちものを最低限に減らしたい病にかかっている私が最もよく使う中国の読書アプリです。書籍購入のプラットフォームですが、WeChatを通じて友達と書籍を紹介し合ったり、読んでいる本を語り合ったりすることもできます。更に調べたい語句を選択して、ポップアップメニューの「查询」をタップすると簡単な解釈が出てきます。 更にオーディオブックの機械音声のクオリティが高く、シャドウイングの教材に使えるほど自然な中国語が流れます。今のところネックだな〜と思っているのは一つだけあります。「多音字」です。「行行行 xing xing xing」(いいよ いいよ)を「hang hang hang」と読んだりするのを聞くと思わず「AIもまだまだよのう」とひそかに笑ったりしていますが、このアプリは手放せないです。

 

そこで今回ご紹介したいのはこの「微信读书」で見つけた「只有医生知道」という本です。今年に入ってから日中医学交流の講義通訳の仕事が今までの倍以上のペースで入ることになり、医療通訳士の資格を持っているとはいえ、トップクラスの先生の間に入って最先端医療技術などを通訳するというプレッシャーは想像を超えるものがあります。気がついたら書棚が医学書や医学雑誌で埋め尽くされていました。しかしやはりちゃんと座って読む時間というのはなかなかたくさん取れません。そこで食事の支度をしている時間や、電車での移動時間などの隙間時間を利用して「听书」(オーディオブック)を始めました。

 

オーディオブックで最初に選んだのが「只有医生知道」です。著者は中国協和医科大学卒の婦人科腫瘍学博士で、北京協和医院産婦人科の主任医師でもあります。女医でありながら文学的なセンスがあふれる文章を書きます。この本は女性についての百科事典のようなもので、女性の体のことや医療環境、医師・患者関係などをユーモラスに描き、自分自身の出産のエピソードも交えて「自分の体は自分で守る」というメッセージを暖かい文字で綴ります。知識性、専門性はさることながら、一気呵成、読み終えた後、心が温まる一冊です。

 

医療通訳者の行動規範には中立・公平な立場を保ち、引かず足さず、忠実に通訳するという決まりがありますが、実際のところ全てこれに沿って通訳するのは至難の業です。「只有医生知道」を読んだ後さらに確信しました。チーム医療が盛んに掲げられている中、日本も中国も患者さんがチーム医療の主人公になりきれていない部分があるように思います。言葉の意思疎通が図れるように通訳することは近い将来AIでもできるようになるかもしれません。しかし、人と人の付き合い、医師と患者の信頼関係を築くにはやはり人間味溢れる優秀な通訳者が欠かせません。IQではなくてEQです。

 

 

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蘇 馨(そ しん)
横浜国立大学教育学部卒業。アイ・エス・エス・インスティテュートで翻訳、通訳訓練を受ける。その後、フリーランスの通訳、翻訳者に。証券会社などの企業研修講師。現在中国語通訳者養成コース通訳科1を担当。

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:05 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第40回:小宗睦美先生(英語通訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー
プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語通訳者養成コース講師、小宗睦美先生ご紹介の「丹野智文 笑顔で生きる 認知症とともに」(丹野智文著, 2017年, 文藝春秋)です

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「通訳の仕事をしていて良かったと思う瞬間は?」と聞かれることがあります。通訳の内容はその時々で違いますが、私にとってそう思う瞬間はいつも同じです。自分がその場にいることで誰かの役に立ったと思えたとき、そして通訳をしたおかげで新しい世界に出会えたとき、そんなときに「通訳をしていて良かった!」と思います。

 

今回は、ある通訳の仕事を通じて私が出会った新しい世界、そして、その世界を私に教えてくれた人の本をご紹介します。

 

今から3年前、知人を通じてテレビ局のプロデューサーの方から通訳の依頼がありました。話を聞くと、若年性認知症の当事者である「丹野智文さん」と、丹野さんと一緒に認知症当事者を支える活動をしている人たちがスコットランドを訪問し、現地の認知症当事者と出会う旅をする、その旅の同行通訳を探しているとのこと。また旅の模様は特集番組として放送されるとも聞きました。

 

「これは面白そう!」と二つ返事で引き受けはしたものの、それまで私は「認知症」と聞いても、お年寄りの病気で、物忘れがひどくなり、徘徊する、寝たきりになる、両親がそんな風になったら困る…程度の認識しかありませんでした。

 

スコットランドの旅の主人公、丹野さんは2013年に39歳の若さで認知症と診断され、私が初めてお会いした3年前は42歳、明るく笑顔が素敵なイケメンで、とても認知症の本人(当事者と一般的には呼んでおり、患者という言葉は使いません。理由は本でも説明されています)だとは思えませんでした。丹野さんは認知症の診断後も仕事を続けながら、「認知症とともに生きる」にはどうすればよいのかを考え、認知症当事者がどのようにサポートしてもらいたいのか、どうすれば認知症になっても元気に明るく生きていけるのか、講演も含め幅広い活動を行っています。

 

認知症と言えば、「暗い」「大変そう」「自分とは関係のないこと、でも家族がなってしまったら介護はどうすれば?」というのが当時の私も含めた一般的な受け止め方で、「介護する側」の立場から見ていることがほとんどだと思います。私は丹野さんと出会い、またスコットランドの旅に同行することで、認知症当事者は一方的に介護されるだけの存在ではない、何もできない人ではない、適切なサポートがあれば社会の中で生き生きと活動できるということを知りました。

 

認知症は誰がなってもおかしくない、そうなったときに少しでも安心して暮らせる社会にするにはどうすればよいのか、通訳として当事者や、また当事者をサポートする人たちと出会う中で、深く考えさせられました。

 

今回ご紹介する「丹野智文 笑顔で生きる 認知症とともに」はスコットランドの旅の1年後に出版され、丹野さんが自分の言葉で、認知症と診断されてからどのように感じてきたのか、物忘れを補うためにどんな工夫をしているのか、どんな思いで認知症当事者を知ってもらう活動をしているのか、そしてスコットランドでの旅について語った内容をまとめた本です。重いテーマではありますが、決して暗くはなく、読むたびに元気づけられます。

 

元来、根が怠け者の私は決して好奇心キラキラというタイプではありません。新たな分野の仕事を引き受けた時は億劫に思うことも正直あります。でも、仕事を通じて「半ば強制的に」学んでいくことで、段々とその分野に興味が出て、「なるほど、そういうことだったのか!」と腑に落ちたり、また、今回のように深い気付きを得ることがあったりもします。通訳という仕事は、怠け者で視野の狭い私に新たな世界を広げてくれる実にありがたい仕事なのです。

 

 

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小宗 睦美(こむね むつみ)

関西学院大学文学部英文学科卒業後、ホテル勤務。その後、外資系製薬会社で秘書。退職後渡英し、英ブラッドフォード大学修士課程(ビジネス戦略・環境マネジメント専攻)修了。帰国後は通訳者・翻訳者並びに講師として活動中。

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:17 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第39回:津村建一郎先生(英語翻訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー
プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語翻訳者養成コース講師、津村建一郎先生ご紹介の「はたらく細胞」(清水茜著, 講談社, 2015年)です。

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今回は、異色のアニメコミック「はたらく細胞」です。
タイトルから解ります様に、人体の血液細胞(赤血球、白血球、血小板・・・)などが擬人化されたマンガです。

 

ただし、マンガと言ってあなどるなかれ! その内容はかなり本格的で、特に白血球(T細胞、B細胞、マクロファージ、好中球、樹状細胞・・・)の働きは医学的にもかなり正確に表現されています。

 

このコミックは、月刊少年シリウスに連載されていたものを単行本にしたもので、シリウスではいまだに連載が続いているそうです。

 

最近のメディカル翻訳のお仕事では、iPS細胞や再生医療等が多くなり、これらの翻訳やライティングを行う際に避けて通れないのが「免疫」です。
大学医学部での「免疫」の教科書は、A4版の分厚いものが4〜5冊はあろうかという、極めて込み入った難解な分野ですが、この「はたらく細胞」では、白血球を中心とした免疫の機能をアニメで要領よくまとめていますので、面白く読み進む内に免疫の構造が理解出来るという優れものです。

 

主な登場人物(細胞)は以下のとおりで、登場人物には名前がない代わりに、細胞名+識別番号で表現されています。
変な固有の名前が付いていないお陰で、細胞名とその細胞の働きが自然に結びついてきます。

 

また、細菌やウイルスも擬人化されていて、体内の平和を脅かすモンスターとして登場します。

 

https://hataraku-saibou.com/character/

 

以前に、アニメも放映されていたらしく、声優(CV)さんはそうそうたるメンバーなんだそうです。
現在アニメの放映は終了していますが、近々第2部が放映開始になるとか・・・

 

また、PV(プロモーション・ビデオ)がありますので、そちらを参照されるのも良いかと思います。

https://hataraku-saibou.com/movie/

https://youtu.be/etPHza6sWoQ

 

アニメでは、身体の中の様々な細胞とその働きが、擬人化された人物とその職業(技能)で表現されています。例えば・・・

 

赤血球を代表している「赤血球ちゃん」は赤血球らしく赤い服装で、酸素や栄養素を運んで、老廃物を回収する配達員キャラクターの女の子です。

白血球(好中球)を代表している「白血球くん」は体内の平和を維持する警備員としてホワイトを基調としたイケメンで描かれています。ただし、侵入してきたモンスター(病原菌などの外敵)と戦う場面では携帯しているタガーナイフを振り回して、かなりブラディなシーンで表現されています。
ただし、白血球が細菌などを捕食して、粉々に分解することは確かですし、返り討ちに合う白血球も少なくないので、体内で実際に血なまぐさい戦闘が繰り広げられているのも事実です。

 

個人的には血小板ちゃんが可愛くて気に入っています。
 

https://hataraku-saibou.com/story/?story=2

 

血小板ちゃんの画でお解りのように、出演者の細胞は種類別に同じ様な服装をしていますが、顔や仕草は微妙に違っていて、個性があります。

 

侵入してくる病原体としては、肺炎球菌、ブドウ球菌、緑膿菌、ピロリ菌、インフルエンザウイルス、ムンプスウイルスなど、さらにはスギ花粉やがん細胞なども登場します。また、善玉菌の乳酸菌や日和見菌のバクテロイデス菌なども出てきます。これらの役どころの作用や振舞もかなり正確に表現されています。

 

一般的な細胞としては、消化管細胞や汗腺細胞、神経細胞、色素細胞、造血幹細胞なども登場しますので、これらの細胞や組織と免疫の関係等も楽しみながら理解出来ます。

 

=== 公式サイトの紹介文の一部 ===
”ここは人間の身体の中。酸素や二酸化炭素を運搬していた赤血球は、ある日、体外から侵入した肺炎球菌に襲われ、白血球(好中球)に助けられる。
体という世界を守るため、逃げた肺炎球菌を追う白血球(好中球)。
だが敵は意外な場所に隠れていて──。”

https://hataraku-saibou.com/story/?story=1

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まさに、こんな感じで、読み出すと止められなくなる恐れ(中毒・依存性)がありますので、取り扱いには注意してください。

 

 

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津村 建一郎(つむら けんいちろう)
東京理科大学工学部修士課程修了(経営工学修士)後、およそ30年にわたり外資系製薬メーカーにて新薬の臨床開発業務(統計解析を含む)に携わる。2009年にフリーランスとして独立し、医薬翻訳業務や、Medical writing(治験関連、承認申請関連、医学論文、WEB記事等)、翻訳スクール講師、医薬品開発に関するコンサルタント等の実務経験を多数有する。アイ・エス・エス・インスティテュートでは医薬翻訳クラスを担当。

津村建一郎先生のブログ https://translator-patner.com/

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:00 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第38回:椙田雅美先生(中国語翻訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー
プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、中国語翻訳者養成コース講師、椙田雅美先生ご紹介の「日本奥地紀行」(イザベラ・バード著, 平凡社)です。

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旅行が好きで近年は国内外合わせて年間50日以上は旅に出ています。
そんな私に「旅人にならなくてもいい。自分が旅をするだけでいい」と、教えてくれた本です。


「日本奥地紀行」は、明治初期に日本の東京から北海道までを旅したイギリス人女性、イザベラ・バードが、欧米人にとって未開の地であった日本の奥地について、自作の精密な挿絵も交えて詳細に記録した旅行記です。最近になって全四巻の完訳本をはじめ、関連書籍が多数出版されましたが、大学院生だった私がこの本に出会った時には、東洋文庫の抄訳版があるのみで、大学の図書館の地下書庫にひっそりと置かれていました。この地味な装丁の本になぜ気づいたのか不思議ですが「奥地」という言葉に惹かれたのかもしれません。

 

イザベラ・バードは、明治11年(1878年)5月に横浜港から日本に入国します。栄華の絶頂を極めていた大英帝国からやってきた彼女にとって、ほんの20年前まで鎖国をしていた極東の国は、どれほど好奇心をそそり、驚愕に満ちていたでしょうか。


ところが、私の予想とは異なり、上陸して最初の記録は、旅人の好奇心や高揚感を前面に押し出したものではありませんでした。灰色の霞に覆われ、イギリスに比べれば簡素で味気ない町並みを前にして感じた寂寥が率直に綴られるとともに、驚くほど冷静で詳細な観察によって、港から眺めた富士山、横浜の街並み、そして市井の人々の様子が精細な筆致で記されています。


日本で発明されて間もない人力車をさっそく利用したバードは「クルマすなわち人力車は、乳母車式の軽い車体に調節できる油紙の幌をつけ、びろうどや木綿で裏張りをした座布団が敷いてあり、座席の下には小荷物を入れる空所があり、高くてほっそりした車輪が二つある」と、車両について詳しく説明し、貧相な体格に似合わない西洋風の服装をした乗客たちについて「まことに滑稽な光景」、「彼らはそれに似合わぬ自分たちのおかしな姿に、少しも気がついていない」と批評します。そして「車は疾駆し、追いかけ、互いに交叉する。車夫は、どんぶり鉢を逆さにしたような大きな帽子をかぶり、青い妙な股引きをはき、短い紺の半纏には、しるしや文字を白く染め抜いてある。この愉快な車夫たちは、身体はやせているが、物腰は柔かである。彼らは、町の中を突進し、その黄色い顔には汗が流れ、笑い、怒鳴り、間一髪で衝突を避ける」と、車夫達たちの様子を実に生き生きと描写しています。


バードはこの年すでに47歳の中年女性でしたが、従者兼通訳として雇った18歳の伊藤鶴吉ひとりだけを連れて、東京−日光−会津−新潟−山形−秋田−青森と進み、さらには北海道に渡って函館から平取まで3ヶ月もの間日本を周ります。「私は、ほんとうの日本の姿を見るために出かけたい」というたったひとつの理由だけで。


どの村でも外国人をひと目見ようと集まってくる野次馬に囲まれ、不衛生な環境に辟易し、調教されていない駄馬と格闘しながらも、バードは少しもひるむことなく旅を続けます。上陸早々に、人力車と車夫を観察した熱意は、旅の終わりまでまったく変わりません。


北海道ではアイヌ人の集落に泊まり、食事を供にします。アイヌの人々の生活ぶりが、まるで映像のように克明に伝わってきます。開拓時代初期、日本人官吏によって、先住民族を新政府の支配下に置く目的での調査は行われていましたが、アイヌ文化の学術的研究は始まっておらず、バードの記録が当時のアイヌの生活を知る唯一の文献となっています。

 

旅行記そのものの素晴らしさに加え、私が驚いたのはバードが自分の生活スタイルを崩さず、平常心を保ち続けていることでした。着慣れたドレスで山道を歩き、持参した簡易ベッドを畳の上で組み立てて眠り、風呂がない地域では簡易浴槽まで作って身体を洗おうとします。これは一見「郷に入っては郷に従え」というありかたに反するようですが、決して現地の生活に溶け込もうとしないのではなく、彼女は何でも食べてみる、やってみる、日本人の通訳が嫌がることも臆することはありません。何でも経験してみるが、いたずらに物真似はしないということでしょうか。


また、各地方によって異なる生活習慣やしきたり、ものの考え方について、それがどのような理由によるものなのか熟考し、納得すれば心から賞賛します。一方で自分の価値観と相容れないことがあれば、遠慮なく疑問を呈し、辛辣な批判をすることもあります。

 

このように自分を見失うことなく、外国人であるゆえに生じる距離を認識し、あくまで対等な立場で相手を知ろうとするバードだからこそ「ほんとうの日本の姿」を見ることが出来たのでしょう。


私は、大学生の頃からバイトに明け暮れては旅行や短期留学に出かけていましたので、この本に出会ったときすでにそこそこの場数を踏んでいました。しかし、長距離を歩くのが嫌い、水回りの汚い安宿やドミトリーに泊まるのは苦手、他のパックパッカーに比べてやたらに荷物が多いなど、自分は中途半端な旅しか出来ていない、憧れのスナフキンのような「旅人」にはなれそうもないと忸怩たる思いを抱いていました。


一方で、したり顔のバックパッカーたちにも疑問を抱いていました。当時、某有名ガイドブックの「中国」版には「人民服を来て、硬座車(中国の何もかもがハードな三等座席車)に乗ればほんとうの中国が見えてくる」と書かれており、この本を信奉する日本人バックパッカーが中国各地を闊歩していましたが、真新しい人民服に身を包み、有名山岳ブランドのザックを背負い、皆が皆、例の青いガイドブックを手にしているのですから一目で日本人とわかります。彼らが硬座車に乗れば、たちまち回りの乗客に囲まれ、カメラや腕時計、航空券の代金、果ては自宅のテレビのサイズまで質問攻めに遭っていました。人民服を着ていない私も当然注目の的になりましたが、そもそも中国人の若者が遊びのために旅行出来る時代ではなかったので、旅行者イコール外国人だったのです。わざわざ買った人民服を着ることは、むしろ失礼なのではないかと思っていました。私は、硬臥車(二等寝台車)や軟臥車(一等寝台車)にも乗りましたが、質問攻めにあうのは三等車と同じです。ただし質問される内容はかなり違っていて、社会主義国家中国にある階層というものを知りました。一等車に乗る党幹部も、三等車に乗る労働者も同じ中国人です。いい人がいれば悪い人もいるのも日本と同じです。異国にいても、自分は自分らしく過ごせばよいのであって、旅に溺れてしまっては一面しか見えてこないのではないでしょうか。


イザベラ・バードは、旅人になりきれないことに迷いを感じていた私に「旅人にならなくてもいい。自分が旅をするだけでいい」と気づかせてくれました。以来、自分が見たいものを、普段通りの自分の目で見ることを第一に考え、情報に惑わされぬことを心がけるようになりました。


翻訳の仕事をしていく上でも、このことは忘れないようにしています。

 

語学を仕事にするには、相手の国の歴史や文化を知ることが必要ですが、言葉が分かるようになると、それだけで歴史や文化も分かった気になることがあります。心情的にも、往々にして母国語ではなく、努力して覚えた外国語の側に流されてしまいがちです。しかし、翻訳という仕事で大切なのは、二つの言語を中立の立場から捉え、同じ概念の文章に換えていくことですから、両者の間をさまよう旅人になってしまってはいけないと思っています。

 

 

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椙田 雅美(すぎた まさみ)
東京都出身、中央大学大学院総合政策研究科博士前期課程修了。専攻は人口政策。ISSインスティテュートで学び、現在は中日翻訳者としての活動をメインに、ISSインスティテュート及び日中学院で講師を務める。ISSインスティテュートでは中国語翻訳者養成コース「本科2(中日翻訳)」クラス担当。訳書に「中国農民調査」(文藝春秋)、「発禁『中国農民調査』抹殺裁判」(朝日新聞出版)など。

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| ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 | 09:21 |
ISSライブラリー 〜講師が贈る今月の一冊〜 第37回:寺田容子先生(英語通訳)

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先生方のおすすめする本が集まったISSライブラリー
プロの通訳者・翻訳者として活躍されているISS講師に、「人生のターニングポイントとなった本」「通訳者・翻訳者として必要な知識を身につけるために一度は読んでほしい本」「癒しや気分転換になる本」「通訳・翻訳・語学力強化のために役立つ参考書」等を、エピソードを交えてご紹介いただきます。
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今月の一冊は、英語通訳者養成コース講師、寺田容子先生ご紹介の「Shortest Way Home: One Mayor's Challenge and a Model for America's Future」(Pete Buttigieg著, Liveright Pub Corp, 2019年)です。

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5月の夕暮れ、駅前の広場のベンチで時間をつぶしていたところ、見知らぬ50代くらいの米国人男性から延々とconspiracy theoryを聞かされるという体験をしました。

 

最初は片言の日本語の世間話で、次第に、米国車をもっと買えとか関税万歳とかいう話になっていき、まどろっこしいので会話を英語に切り替えたら、さらにヒートアップ。チャキチャキのトランプ大統領支持者なのには早めに気づきました。米国政治情勢を早口で語った後は、トランプ氏が巻き起こしたbirther movement(オバマ前大統領はアフリカ生まれでイスラム教徒というデマ)、スティーブ・ジョブス生存説、クリントン一族の策略等々、代表的陰謀説が次々と繰り出されていきました。

 

放送通訳という仕事柄、こういうタイプの方がいることは知っているつもりでしたが、初の生遭遇に密かにやや興奮。にしても、駅前で出会う人間の中で、私はこの類の話の相手をするのにかなり適した職業だといえると思います。ニュースを伝える仕事のため、米国政治の詳細や要人発言、ゴシップまで重箱の隅をつつく毎日だからです。

 

米国政治といえば、次の大統領選挙は来年11月3日。手間暇かかることで有名な米国の選挙では、投票日の1年以上前から候補者討論会が始まり、予備選primaries & caucuses、党大会party convention、さらに民主党と共和党の候補者同士の討論会presidential debatesが何度もあって、ようやく本選挙general electionにたどり着きます。放送通訳は、選挙速報はもちろん、候補者討論会の生中継を同時通訳する機会も多くあり、党内情勢や各候補者の一挙手一投足を追っておくことがとても大切です。

 

民主党Democratsは現時点で20人以上が立候補を表明していて、6月末の第1回を皮切りに候補者討論会Democratic primary debatesをほぼ毎月行い、候補者を絞っていきます。

 

今回、ご紹介する本「Shortest Way Home」は、そんな乱立する民主党候補者の中で急速に頭角を現している最年少37歳、インディアナ州サウスベンド市のブティジェッジ市長の自伝です。バイデン前副大統領など知名度抜群の老練政治家を追い上げている人です。かなり分量がある本ですが、英語が平易で分かりやすく、市長の日常生活の描写も興味深く、どんどん読み進めることができると思います。米国の選挙事情や中央政局、地方政治の仕組みも垣間見ることができるでしょう。

 

同氏は、名門大卒のエリートで、公僕として尽くしたいという思いから20代後半で高給取りの仕事を辞めて海軍予備役に志願するとともに、29歳で故郷サウスベンドの市長に当選し、今に至ります。経済の立て直しで高い評価を受けました。

 

普段本を読まない私がこの本をアマゾンでポチったきっかけは、ペンス副大統領とのgay rightsを巡る舌戦でした。直接討論したわけではなくメディアを介しての議論です。同性愛を公表しているブティジェッジ氏は、ペンス氏のLGBTQコミュニティへの差別的態度を批判し、次のように述べて賞賛されました。

 

"If me being gay was a choice, it was a choice that was made far, far above my pay grade. That's the thing I wish the Mike Pence's of the world could understand, that if you have a problem with who I am, your problem is not with me. Your quarrel, sir, is with my creator."
(私がゲイなのはそう選択したからというなら、その選択は遥か上でなされたもの。世の中のペンスさん達に理解してほしいのは、そういうことだ。私が私であることが問題というなら、あなたが言い争うべき相手は、私の創造主である神であるはず。)

 

ペンス氏は共和党Republicansで、インディアナ州の知事を辞めて副大統領になった人。保守強硬派のリーダーで、聖書を”厳格に”守る宗教右派the religious rightであり、同性愛はconversion therapyで治療できると信じています。

 

二人のgay rightsを巡る対立は、知事時代の政策”Religious Freedom Restoration Act”に遡り、当時のやり取りが本著に詳しく書かれています。この州法は「宗教の自由回復法」と銘打った差別の合法化だと批判され、ペンス氏は全米から袋叩きにあう一方、同性愛を認めない宗教右派にはスター扱いされました。そのタイミングでの副大統領候補running mate指名により、トランプ候補は保守票を確保し、ペンス氏は針のむしろの知事職から副大統領に転身でき、渡りに船だったと書かれています。

 

先ほどの発言も含め、政治集会や対話集会中継での市長の発言を通訳していると、その頭の回転の速さと言語能力の高さに感銘を受けます。質問に直球で返しつつ自分の考える正義を効率的に、気の利いた表現で伝えていて、オバマさん以来の爽快感を覚えます。

 

ちなみにブティジェッジ氏は、市長就任後に休職して戦地に向かいました。帰国後人生を考え直したようで、この州法の成立後(その後修正案が通過)に同性愛を公表し、デートアプリでパートナーを探し、めでたく結婚しました。要領がよい人です。

 

ここまで言っておいてなんですが、正直、私は誰が勝とうがどうでもよいです。こだわりなし。できれば英語の分かりやすい人を希望。ブティジェッジ氏には、むしろ副大統領候補になってもらい、討論会でペンス氏と直接対決するのを見てみたいなとは思っています。

 

 

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寺田 容子(てらた ようこ)
東京外国語大学卒業。アイ・エス・エス・インスティテュート放送通訳科で学び、2001年より放送通訳者として稼働を始める。現在は、NHK、CNN、BBC、その他各テレビ局にて、報道全般、記者会見、スポーツ、米大統領選挙報道など、多岐にわたるテレビ放送の同時通訳および時差通訳を中心に活躍中。

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